春さんのひとりごと
山元さんの『遺志』の実現に向けて
このベトナムで15年間親交を結ばせて頂いていた山元さんが、4年ぐらい前から私や友人たちに話されていた言葉が有ります。しかし、今年2月に山元さんが亡くなられた今、その言葉は『遺言』になってしまいました。故・山元さんが話されていたのは次のことでした。
「元日本兵・古川さんの六人の子どもたちのうち、誰か一人でもいいから、お父さんの故郷を見せてあげたい!」
ベトナム南部のTien Giang(ティエン ザーン)省Cai Be(カイ ベー)でバナナ園の管理をされていた元日本兵・「古川善治(ふるかわぜんじ )さん」は、ベトナム戦争が終結する少し前に、日本に一時帰国をされる予定でしたが、不慮の事故に遭い、60歳でその一生を終えられました。
◎古川さんの略歴◎は以下です。
◇宮城県刈田郡出身
◇古川さんの生年:1915年
◇古川さんの没年:1975年3月8日(新暦)。旧暦では1月26日。享年60歳。
第二次大戦中、ジャワ、ガダルカナル、ラバウル、マニラ、スマトラと転戦し、巡洋艦でシンガポールへ向かう途中、潜水艦の魚雷攻撃を受け、古川さんは海の中を4時間泳いで助かった。
サイゴンで敗戦を迎えた時は「陸軍兵長」。以後、対仏独立戦争でベトミンの一員として戦い、1954年のジュネーブ協定で、独立戦争が終結した後も、サイゴンにとどまった。その後、1962年頃からバナナ園の管理をしていた。
(阿奈井文彦さんの「ベトナムへ帰った日本兵」より)
◎古川さんの家族構成◎は以下です。
◇奥さん:Tran Thi Anh (チャン ティー アン)さん◇Anhさんの生年:1929年
◇Anhさんの没年:2004年2月9日(旧暦)
◆古川さんが遺された、6人の子どもたち◆
長女A (アー) さん :1954年生まれ
次女B (ベー) さん :1956年生まれ
三女Hue (フエ) さん :1958年生まれ
長男Tuan (トゥァン) さん:1967年生まれ
次男Vu (ヴー) さん :1968年生まれ
四女Thuy (トゥイ) さん :1972年生まれ
古川さんはこれら6人の子どもさんたちをCai Beに遺されました。古川さんが亡くなられた時、次男のVuさんは7歳、四女のThuyさんなどはまだ3歳の幼さでした。そして、生前の古川さんに一番似ているのが、この二人だと山元さんも言われていました。Cai Beにある実家の祭壇に飾ってある古川さんの写真を見た時、私も確かにそうだなと思いました。
そして、実は2019年の3月にCai Beで行われた「元日本兵・古川さんの44回目の法要」に、「さすらいのイベント屋の中村雅身さん」と私が参加した時、(もしかしたら、山元さんの願いが実現するかも・・・)と思わせる出来事がありました。その場には、当時元気な山元さんもいました。そこに、Vuさんが一人の若い女性を連れて来ていました。それはVuさんの娘さんでした。
驚いたことに、彼女は私たちに日本語で自己紹介をしてくれたのでした。「私の名前はNhi (ニー)です」と言ったのです。山元さんは「ええーっ、日本語が出来るの!」と、いかにも嬉しそうな顔をしています。中村さんも大いに驚いています。その後、Nhiさんは片言ながらも日本語が出来るので、日本語を交えながらゆっくりと話しました。
彼女の話では「私は今18歳で、サイゴン市内の大学で法律の勉強をしています。そして、日本語をDong Du学校で勉強しています。習い始めて5ヶ月目です」とのことでした。彼女がそれに続けて話してくれた言葉に、山元さん、中村さん、そして私の三人は大いに驚きました。彼女はこう話してくれたのでした。
「日本語をもっと勉強して、日本に留学するつもりです!」と。それを聴いた私たちは(もしかしたら、古川さんの6人の子どもたちよりも、このNhiさんが先に日本に行けて、お祖父さんの故郷を訪問出来る可能性が高いかも・・・)と想像したのでした。後で、山元さんも私に同じような思いを話してくれました。その時のことは2019年3月号<元日本兵・古川さん44回目の法要>に載せています。
そして、我々はその年のCai Beでの「古川さんの法要」を終えて、サイゴンに戻りました。それから、状況が変わったのは、その後半年ぐらいしてからでした。Vuさんから「娘のNhiは台湾に留学することになりました!」と言う連絡が来たのでした。その時には、タンソニヤツト空港で撮影した彼女を見送った際の写真も添えられていました。
それを知った私はガッカリしましたが、台湾に行くことが決まってしまった以上、仕方がありません。彼女が台湾に留学先を変更したその理由は、台湾のほうが「奨学金」の取得が日本に行くよりも簡単に出来るからとのことでした。それで、(あぁー、また振り出しに戻ったか・・・)と思い、山元さんと相談したのは、6人の中で日本に行ける可能性が高いのは、「体力」「気力」「連絡力」の面から言えば(やはり、次男のVuさんしかいないな)と考えました。
長男は若い時に、今の奥さんと結婚した後、高い椰子の木から下に落ちて、腰を強打して以来、車椅子生活なので無理です。女性たちも家庭の仕事などが有り、家を空けられない状況のようなので、難しいようです。日本に行くにあたって、必要な物を準備してもらう時、連絡を密に取る場合、Vuさんが適任でした。それで、最終的に我々が<白羽の矢>を立てたのはVuさんでした。
今年の2月末に行われた「古川家の法要」には、私とKSくんの二人で参加しました。その日の法要の宴会があらかた終わり、一段落した後、Vuさん、KSくん、私の3人が一つのテーブルを囲み、ビールを飲みながら談笑しました。その場で、KSくんが「Vuさんはお父さんの故郷・宮城県を訪問したい気持ちがありますか」と訊きました。
それに対して、Vuさんは「もちろん有ります!」と答えてくれました。それを確認した私たちは「それであれば、Vuさんの日本訪問の実現に向けて動いてゆこう!」という気持ちを固めました。その時点での賛同者は、中村さん、KSくん、私の3人だけでした。
しかし、その後の中村さんの動きが、さすが「さすらいのイベント屋」だけあって、スゴイ行動を見せられました。中村さんの「考え」とは、Vuさんがただ単に<お父さんの故郷を見ました、訪問しました>で終わるのではなくて、お父さんの故郷・宮城県を訪問した時、日本側の人たちから歓迎されないと意味がないということでした。
そのために、サイゴンにある宮城県人会、領事館、ゆくゆくは日本の外務省、宮城県の新聞社などを動かして、日本におられる古川さんの親戚・兄弟姉妹の方々から「良くぞ来て頂きました!」と言う、温かい出迎えの場面を演出したいという気持ちを中村さんは持たれています。その気持ちは、私も全く同感でした。
中村さんが身を以て示されている「人を動かす」「組織を動かす」、その情熱を傍で見ていますと、実に感心します。ご自身は宮城県出身ではないのですが、そのために、サイゴンで行われている「宮城県人会」にも積極的に参加されているのでした。そこでは、今宮城県に戻られている「元宮城県人会会長」の方を紹介されたと言われました。
2016年10月にダナン市で執り行われた“十一面観音菩薩像奉納の儀式”で日本の奈良市の<東大寺>とベトナムのダナン市の五行山の<観世音寺>の間を繋ぎ、見事に“十一面観音菩薩像奉納の儀式”を成功に導いたのも、これ中村さんの功績でした。あの時は私自身もその場に居て、深い感動を覚えました。その時のことは2016年11月号<ダナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加>に載せています。
そして、そのダナン市での“十一面観音菩薩像奉納の儀式”には私と同じ学校で日本語を教えておられた同僚のS先生も一緒に参加されました。しかし、S先生はその数年後学校を辞められて、2018年10月に念願のイタリアへ「留学生」として日本から旅立たれました。そのイタリアには約一年近く「留学生活」をしながら滞在し、イタリアでまだ「コロナ」が発生する前に運良く、2019年11月に日本に本帰国されました。
そのS先生の故郷が、実は宮城県なのです。そして、S先生もCai Beでの「古川さんの法要」に2017年に参加されたことが有りました。ですから、当然古川さんの6人の子どもさんたちにも会われています。今宮城県におられるS先生にも、<山元さんの『遺志』の実現に向けて>の協力をお願いしましたら、快く引き受けて頂きました。故郷に戻られた今現在は「先生」の仕事はされていませんが、それまでずっと「S先生」と書いてきましたので、分かり易いようにここでも「S先生」と表記させて頂きます。
しかし、今日本におられるそのS先生からは、実に貴重な情報の数々を頂きました。その中で、大いに驚いたのが、亜細亜大学の「大塚直樹」先生が生前の山元さんにインタビューされておられた記事です。題名は「ベトナム戦争期における同時代的な記憶とその再生 ──在ベトナム日本人のライフストーリー」。「大塚先生」のその論文はこちらからお読みいただけます。
私たち「故・山元さん」を知るメンバーで、今年2月25日に「山元さんを偲ぶ会」をサイゴンで行いました。実は、そこに「大塚直樹」先生も参加される予定でしたが、その日は急用が出来たとのことで、お会い出来ませんでした。しかし、「大塚直樹」先生の力作のレポートは、故・山元さんを知る私たちには、実に貴重なレポートです。
山元さんがベトナムに21歳で渡り、「サイゴン解放」を自分の眼で見、今に至るまでの記録が、時系列で詳しく記録されています。大塚先生は山元さんの話を聴きながら、それを詳しく書き留め、<価値ある資料>として残そうという意気込みで記事を書いておられます。その時の、山元さんご自身がイキイキとして、インタビューに応じておられる場面を想像しました。
この記事の中には、大塚先生が山元さんにインタビューされたのは「2019年7月と8月の計2回」とあります。そして、このレポートが発表されたのは、「2020年3月」なので、今年2月に亡くなられた山元さんはこのレポートの完成を見ることなく、 天国に旅立たれました。私はそのレポートを、日本におられるS先生から初めて紹介して頂いたのでした。
中村さんは、山元さんの『遺志』の実現のために参加するグループを創りました。 そのグループ名を「カイベの想い」と名付けました。今現在<山元さんの『遺志』の実現に向けて>日本側とベトナムで動いているメンバーは、中村さん、S先生、フォトジャーナリストの村山さん、KSくん、NTさん、YMさん、そして私の7人です。
村山さんも「古川家」の法要には参加されたことがありました。KSくんは、S先生と同じく2017年に「法要」に参加し、今年も私と一緒に参加しました。NTさんは、昨年山元さんと私がバイクで<ベトナム南北縦断の旅>をした時、ハノイからNinh Binhまで私と一緒に下った人です。Cai Beで山元さんの映像を動画で撮影したいと願いながら、それが果たせなかったことを悔やんでおられた方です。YMさんは「宮城県人会」の担当者の方です。
その後<山元さんの『遺志』の実現に向けて>、私たちが白羽の矢を立てたVuさんの「日本訪問の実現」のために、KSくんがVuさんといろいろやりとりしてゆくことになりました。複数の人からいろいろな連絡が来ると、Vuさんも大変だし、混乱するので、Vuさんとの連絡窓口はKSくんにお願いしました。
しかし、そうしてゆく中で困った問題が起きました。日本にVuさんを連れてゆくとなると、いろいろな「手続き書類」や「戸籍」や、古川さん本人との繋がりを示す「出生証明書」などが必要になります。そのことについて、KSくんが打診すると、Vuさんから次のような内容のメッセージが届いたと言うのでした。
「Vuさんから返事がきました。古川さんに関する資料は全く発見できなかったそうです。紙書類は虫に食べられ喪失。送ってもらったのは、以前山元さんから見せていただいた古川さんの写真3枚だけです。出生証明書などは役所で発行できるのではと聞いたのですが、1975年4月30日以前の情報は旧南ベトナム政府が管理していたので、国自体がなくなってしまった現在、発行はまずできないとのことです。いきなり暗礁に乗り上げてしまいました」
Vuさんから来たその情報をKSくんはみんなに知らせました。私の所にも届きました。 それで、私の女房に「1975年以前に南ベトナムで生まれた子どもの戸籍や出生証明書を無くした場合、地元の役所に本人が出かけて行き、自分の戸籍や出生証明書を 再発行してもらうことは出来ないのかな?」と訊きました。
女房の返事は「今は病院で赤ちゃんを産むのが普通だけど、昔は家で出産していた人が多かったわ。病院で赤ちゃんを産んだ人は出生証明書がもらえるけど、自宅で産んだ人はもらえない。私の父がそうで、役所にお願いに行ってももらえなかったと話していたわね。でも、戸籍の再発行は出来ると思うわよ。でも、詳しいことは直接地元のお役所に行かないと分からないと思う」と言うものでした。
今回の動きでスゴイのは、日本側ではS先生が自ら市役所に出向いて、いろいろな情報を集められていたことです。S先生からは次のような情報を頂きました。「やはり、古川さんと息子・娘さんたちの関係を証す書類が必要です。長男・次男の戸籍と出生証明書を新しく発行してもらえないものでしょうか? もしかすると古川さんが日本人であることが理由で、子供たちの出生届をしていなかったということもあるかもしれませんね?戦火で書類が消失したとしても、地元の人民委員会に理由を届ければ、古川さんの氏名が記載されている長男や次男の戸籍簿や出生証明書を新たに作成してくれると思います」
しかし、Vuさんとのメッセージのやりとりだけではなかなかラチが明かないので、中村さんが考えたのは、一度Vuさんと私たちが対面して、「日本訪問の実現」のために何が必要か、どこまで書類作成が可能かをいろいろ質問して聞き出してみようということでした。そのために、中村さんはダナン市から飛行機で来られたのでした。
ようやく、我々がVuさんと会えたのは7月26日(日)で、場所は「スシコ」でした。我々日本人側は中村さん、KSくん、NTさん、私。それに、込み入った話になるので、ベトナム語が達者なAYさんにも来て頂きました。AYさんのベトナム滞在は私よりも長く、25年を超えています。Vuさんは奥さんも一緒に連れて来ていました。
席に着いたVuさんと奥さんは大きな袋をテーブルの上に置きました。その袋の中から竜眼とランブータンを取り出して、我々に「どうぞ!」と勧めてくれました。ランブータンはCai Beの農園には植えていないので市場で買ってきたようでしたが、竜眼はCai Beの農園で穫れたものでした。その果実が大変大きく、口の中に入れてかじると果汁が溢れ出てきて、実に美味しいものでした。
Vuさん夫妻を前にして、中村さんがいろいろ質問します。家族のこと、1973年に日本から生前の古川さんを訪ねてきた二人の子どもたちのこと、古川さんがベトミンに参加したことの真偽、日本訪問のための必要な種類の手続きのこと・・・などを日本語で訊いて、それをAYさんが流暢なベトナム語で通訳します。AYさんが通訳した言葉を、中村さんは左手に挟んだ手帳に詳しく書き留めていました。
そうした質疑応答が約一時間半続いて、Vuさん夫妻は先に帰ってゆきました。中村さんはこの日にVuさんが必要な書類(戸籍や出生証明書)を持ち込んできてくれたかな・・・と期待していたようですが、Vuさんはそれを持って来てはいませんでした。それで、必要な書類について中村さんが質問した時、彼は「分からない」と答えていました。
古川さんの過去の経歴などについても、「阿奈井文彦さん」のルポと照らし合わせながら、Vuさんに訊きましたが、彼自身が首を傾げて(どうだったかなぁ~)と言う仕草を見せる場面が有りました。良く考えれば、1973年に日本から古川さんの子どもたちが来た時にはVuさんはまだ5歳。古川さんが亡くなられた時が7歳ですから、確かな記憶が無いのは仕方がありません。
結局、この日に具体的な進展はありませんでしたが、<山元さんの『遺志』の実現に向けて>の第一回の会合と思えばいいのだと割り切りました。でも、先ず、一番大事なことはVuさん本人の気持ちです。Vuさんのこころの中に、「父の故郷を訪ねたい!」という強い気持ちを維持できるかどうかです。この日の会合が終わった後、KSくんが次のような感想を寄せてくれました。
「スシコでVuさんと話した時、彼は現在[コロナ禍]のために失業中で、年齢的にもなかなか新しい仕事が見つからないと言っていました。それが、今日私たちがVuさんに会った時、彼が今【日本行き】にあまり積極的でないな・・・と感じた、私の想像です。やはり、失業中は気分も滅入り、なかなか前向きになれないのだろうと思います。そんな時、遠いCai Beまで行って、いろいろな手続きをしたり、仮にもし、書類の入手が出来たにしても、日本に行ったり、様々な活動をするのは、今は気が重いのかもしれません」
そのような感想を読んだ私は、KSくんはVuさんの今の状況を良く把握してくれているなーと感心した次第です。KSくんは「スシコ」の席に座った時、Vuさんの対面にいたので、彼の顔の表情が良く見えたのでしょう。しかし、私はVuさんの心情を思いやってくれている彼の感想に、こころ打たれました。確かに、今年はまだまだ「コロナ禍」が続いているし、仮にもしVuさんが日本に行けるとしても、おそらく来年ぐらいになることでしょう。
大事なことは、Vuさんが日本を訪問し、お父さんの故郷・宮城県に足を踏み入れた時、古川さんの家族の人たちはもちろん、親戚の人たちや隣近所の人 たちからも、「Vuさんの日本訪問を喜んで歓迎します!」という温かい気持ちで迎えて頂きたい。私たちの願いは、ただそれだけです。ですから、本人 自身が今その気持ちがあまり無いのに、彼の尻を叩いても迷惑でしょうから、 我々も焦らずにじっくり準備して、ゆっくりとその時を待つことにします。
彼がベトナムから飛行機に乗って日本に着き、眼を輝かせて日本に降り立ち、その両足で日本の土を踏み、初めて訪問したお父さんの故郷を眼にする。そのことが実現すれば、私たちの喜び、これに勝るものは有りません。それが叶う日が来るまで、私たちも協力してゆくつもりです。山元さんの『遺志』を受け継ぐために・・・。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
熊本の造船所で働くベトナム人実習生47人が新型コロナ感染
在福岡ベトナム総領事館は5日、熊本県玉名郡長洲町有明にある造船所で働くベトナム人実習生47人が新型コロナウイルスの検査で陽性判定を受けたと明らかにした。この造船所では245人のベトナム人実習生が働いている。今回陽性判定を受けた47人の他にも、検査では陰性だったものの微熱や息苦しさなどの症状を訴えている実習生もいるという。陽性判定の47人は現在、地元の医療機関で隔離措置を受けており、県当局は造船所と協力して感染拡大防止対策を進めている。
有明の造船所でベトナム人実習生を管理しているN・X・Nさんは、「陽性の知らせを受けて以降、在日本ベトナム大使館と在福岡ベトナム総領事館が積極的にサポートしてくれており、地元当局に掛け合って迅速な隔離措置と治療が受けられるようにしてくれました」と語った。
なお、造船所の運営会社では、隔離されている実習生たちの食事や日用品なども手配しているが、感染者の数が多かったため、実習生の間で不安が広がっているという。このまま実習生の感染者が増加すれば、会社の作業にも遅れが生じて売上が減るため、実習生の生活にも直接的な影響が生じると懸念されている。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
ベトナムで実習生たちに「日本語」を教えていて、今日本でも多くの生徒たちが働いているのを知っている私は、この記事が眼に飛び込んできた時、大いに驚き、悲痛な気持ちになりました。何故なら、その地名が「熊本県玉名郡長洲町有明」と書いてあったからです。その場所は、私の家から車で20分ほどしか掛からない場所なのです。
その造船所で、今ベトナム人の実習生たちが245人も働いていて、その中の47人が新型コロナウイルスに感染したとは、何という不運でしょうか。その情報は、当然ベトナムにいるご両親にも届いているはずですが、日本に我が子の看病にも行けないご両親の苦悩は如何ばかりでしょうか。
昨年私が日本に帰国した時、私の故郷の玉名市内でベトナム人の実習生の「Quang (クアーン)くん」に会いました。彼は玉名市の隣の荒尾市で働いていました。彼を私に紹介してくれたのは、高校制時代の同級生のSNくんでした。Quangくんといろいろ雑談をしていた時、彼がこう話してくれました。「玉名郡長洲町の造船所にも、僕の友人が働いていますよ」と。
その時は「あぁー、そうですか」で終わりました。しかし、まさかそこで245人ものベトナム人実習生たちが働いているとは知りませんでした。その中の47人が新型コロナに感染してしまったとは・・・。日本に夢と希望を抱いて来日したベトナム人の若者たちが日本でコロナに遭うとは、何と言うことでしょう。
その事実を知ったにしても、ベトナムにいるご両親は我が子に会いに日本に行くこともままならず、「この造船所の会社はどういう感染対策をしていたのだ!」と責めたい気持ちだろうと思います。しかし、もちろん一番責められるべきは、発生源の中共です。
「長洲町有明にある造船所」と言えば、私の高校生時代からすでに造船業を展開していた有名かつ、大きな会社です。私の友人も高校卒業後、数人が働いていました。しかし、今の日本人の若者はそういう重労働の会社で働くことを厭い、已む無く遠いベトナムから「実習生」を採用したのだろうなぁ・・・とは想像しました。
しかし、この「コロナ禍」が長引き、もし一人でも死亡者が出ると、大変な事態になります。たぶん、来年からの「ベトナム人実習生たち」の送り出しは無くなることでしょう。両親も危ない場所に我が子を行かせたくないし、本人も二の足を踏むでしょうから。ですから、一日でも早く「コロナ」を抑えてもらいたいと切に願っています。