春さんのひとりごと
< ベトナム戦争中にバナナを栽培していた日本人 >
私たちが子供の頃、バナナというのは大変なゼイタク品で、めったに食べることはありませんでした。今でも記憶があるんですが、中学校の帰りに、友達数人で果物屋さんに寄って、三人でお金を出し合って一本のバナナを分けて食べた思い出があります。その当時一本が20円くらいの値段だったでしょうか。
「このバナナは一体どこで出来るんだろうか?」と、見ただけで美味しそうなバナナの出来る国が羨ましかったので、学校の先生に聞くと「台湾だよ」と教えてもらいました。それ以来、「バナナというものは台湾から来ているもの」と思い込んでいました。しかし実はその当時にもベトナムからも輸入していたんですね、しかもあのベトナム戦争の真っ最中に・・・。
ある日たまたまこのホーチミン市で、60歳を少し過ぎたくらいの一人の日本人の男性・Yさんに出会いました。Yさんは1963年から75年まで、まだ20歳を少し超えた頃にこのベトナムにやって来ました。その年代を良く見ると、ちょうど私が数人でお金を出してバナナを食べていた頃の中学校に通っている時期と一致しますね。
Yさんがベトナムに来た動機は、Yさんの知人が話した「ベトナムでバナナを栽培して、それを日本に輸出する仕事をしてみないか?」という、ただそれだけの言葉に魅力を感じたというだけのことだったそうです。
歴史年表を開くと、Yさんが20歳代でベトナムに来た1963年の翌年の「1964年には北爆が始まり、ベトナム戦争が激化した」と書かれています。そのベトナム戦争が激化した頃のベトナムに来てYさんが赴任したのは、ホーチミン市から西のほうに今なら車で2時間〜3時間で着く、Cai Be(カイ ベー)という小さな地方です。
彼はそのCai Beにある小さな島全体を、日本への輸出用のバナナの栽培地として、すでにあるバナナの木を買い取り、さらにまた植え付け面積を増やして栽培を始めました。その当時はそこには、日本人など誰一人としているはずもなく、食事も自分で市場に行って自分で買って、それを自分で料理して食べていたそうです。洗濯も近くの川でゴシゴシと自分で洗っていたそうです。
今でもベトナムの田舎に行くと、電気も水道もない地方がありますが、Yさんが当時住んだ地方には、当然のことながら電気はもちろん、水道もガスもシャワーもありません。そういう田舎でその当時、毎日どういう生活をして過ごしていたかは、Yさんの話の断片から想像するしかありません。
Yさんはしかし、今となってはその当時のことを懐かしい思い出として遠い記憶の底から引っぱり出すようにして話してくれました。何といってもヘンピな村にただ一人だけの外国人が住んでいるというだけで、その当時にそこに関係している政府軍やベトコンの双方から「スパイではないか・・・!?」と疑われたこともあるそうです。しかし自分が今この田舎でやっている仕事の内容を、相手に何回も何回も説明をして、最後にはようやく分ってくれたそうです。
さらにはその地方にも、アメリカ軍の爆撃機が爆弾を落として、小島の対岸に爆弾が大量に降ることも何回もあってね〜、その時は生きた心地がしなかったよーと、今でこそ淡々と話してくれました。
肝心の仕事であるバナナの実を房ごと切り落とすのは、暑い昼間にやるとその房が弱るので、ふつうは夜にやるそうです。しかしその夜には、バナナの房の中に青い色をした細いヘビがいます。これは猛毒を持っています。さらにまたバナナの畑自体にもコブラがいます。それで夜バナナの房を切る時には、注意に注意を重ねて仕事をしていたそうですが、それでもやはり現地の人たちでヘビに噛まれて命を落とした人もいたそうです。
そのバナナの畑で捕まえたコブラは、その日のうちにみんなで料理して食べたそうです。「その味はどうでしたか?」と聞きますと、「ふだんが大した肉料理がないんで、まあまあ旨かったですよ」と笑いながら話してくれました。
Yさんは今は当然、もうバナナの仕事からは離れた仕事をされていますが、20代初期に頑張って働いたベトナムで、これからまたさらに新しい仕事で第二の人生を過ごそうとしておられます。その話しかたの元気の良さは、聞いていてとうてい60歳代とは思えない若々しい情熱を感じたことでした。
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