アオザイ通信
【2005年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

< 中国からベトナムへ>
先般の中国での反日暴動は、ここベトナムでも報道されましたが、ベトナムの人にとってもあの凄まじい狼藉ぶりは大いに衝撃だったらしく「中国の人たちはほんとうにヒドイことをしますね!」と深いタメ息をついていました。いつも中国からは「侵略され尽くした」と言っていい歴史を持つベトナム国ですから、ベトナム人自身もまた中国という国に対しては視点の違う「歴史認識」持っています。

さらにまた第二次大戦当時においては、日本はこのベトナムの土地にまで入り込んで、ベトナム農民の食料を奪って多くの餓死者を出したという事実があるだけに、ベトナムではそういう「反日感情は今あるか?ないか?」とベトナム人に率直に聞きますと、「そういうものはないです。全然ありませんね。我々ベトナム人は今未来志向ですから」という答えが返って来ます。「ベトナム戦争で戦ったあのアメリカとも、今から友好関係を結ぼうとしているんですから・・・」と。

そしてあの中国での事件からしばらく経ったころ、中国の上海市で器械の部品を製造して日本に輸出しているZさんにホーチミン市で会いました。Zさんは5年前から、中国の上海市の近くや中国の田舎のほうに、全部で3ヶ所の工場を持っています。

今まで中国にそのまま工場を置いて全然問題無く来ていただけに、突然噴き上げたあの日本・日本人への反発には、大いに驚き、怒りがこみ上げ、最後には深い失望感に襲われたそうです。さらにはあのデモのどさくさにまぎれて、賃金のアップまで要求された企業も実際にあったといいます。

そしてZさん自身は「またいつか同じことが起きるかもしれない。今後ここ中国にずっと今のまま工場を全部置くことは大いにリスクが高い」と冷静に判断して、新しい候補地としていろんな国を調べ、どこが良いかを探しました。そしてインド、パキスタン、タイ、カンボジア・・・などと調べていって、最後に落ち着いた国がここベトナムでした。

その理由は、ベトナムの政治の安定、治安の良さ、識字率の高さ、手先の器用さなどが評価の対象になりましたが、Zさん自身が次の投資先にベトナムを選んだ最後のキメテは「ベトナムには反日感情がない」ということでした。

そして今実はあの反日暴動以来、「中国からベトナム」へ投資先を変更している企業はZさんの知り合いだけでも、すでに5社くらいが同じような動きをし始めているといいますから、今中国全土ではかなりの日本企業が今現在そう思っているか、これから遠くない先に、実際にシフト先を変える可能性は高いでしょう。

実際に工業用ミシン世界最大手のJ社は、中国に集中している生産体制を見直し、ベトナムにミシン工場を建設する検討を始めたほか、インドでの販売網を強化しはじめたそうです。こちらベトナムの記事には、以下のような内容が掲載されていました。

『顧客の日系を中心とした縫製企業が、生産拠点を人件費の高騰が著しい中国からベトナムやインドに移してきている。今年1月の繊維製品貿易の完全自由化に伴う中国・欧米間の繊維摩擦激化や、反日感情の高まりを背景に、縫製工場の“中国脱出”に拍車がかかるとみられる。ベトナムでは、すでにホーチミンの部品工場に隣接する約2万8000平方メートルの工場用地を取得した。部品に加えて工業用ミシンを生産する工場を建設する計画で、具体的な検討を始めた』・・・・と。

Zさんは、「ベトナムに来て、ベトナムの人たちと話していると、何か不思議な安心感があるんですね〜。何とかこの国でまた新しい仕事をベトナムの人たちと始め、一緒に汗を流し、一緒に成功したいです」と話していました。

中国を去り、新しい土地ベトナムで新しいビジネスを始めようと意欲に燃えているZさんを見ていると、あの中国での事件は中国にとっても将来大きなツケとなって返って来る出来事だったのかもしれません。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース 「 杉良太郎さんが日本・ベトナムの親善大使に 」■ 

日本の外務省は、日本とベトナム両国の親善友好関係をさらに促進するために、俳優の杉良太郎さんに「親善大使」の役割を任せることになりました。

杉さんは日本・ベトナム双方の文化交流を促進するために、ベトナムに対して今までにも多くの寄付をされて来ましたが、これからも日本・ベトナム友好協会の先頭に立っていかれることでしょう。

杉さんは1997年にベトナム政府から外国人に贈られるものとしては最高位の勲章を授与されたこともありますし、今ベトナムで歓迎される日本の文化人の中でも主要な一人です。

2004年10月に小泉純一郎首相がファン・バン・カイ首相とハノイ市内で会談した時に、日本・ベトナム双方の文化交流の促進のためにいろんな活動を行うことを確認しましたが、その時にそのさまざまな活動の中の一つとして、今回のこの「親善大使」の設置が決まり、その任に最もふさわしい人物として、永く日本・ベトナム文化交流協会会長を務める杉さんにその役を引き受けて頂くことになりました。

杉さんは終了後、「ベトナムでは以前日本語学校をつくったり、日本とベトナムの友好親善公演をしたりして、約16年間のお付き合いがあります。今までの経験を生かして頑張りたい。さらにまた日本・ベトナム双方の文化交流の拠点をハノイにつくる夢を実現したい」と決意を語りました。

(解説)
杉良太郎さんがベトナムに創った日本語学校とは、今もホーチミン市内にあり、それは「さくら日本語学校」と言います。この学校は今ホーチミン市内では古いほうで、レベルの高い日本語学校として、日本語学習を希望する人たちの間では有名です。

ここを卒業していった学生たちが、その後日本語をベトナム人に教える側に立ち、地道に日本語学習者を広げる基礎を作って来たことは間違いのないことです。

今ベトナムにおいて日本語は、英語・フランス語についで人気のある言語のひとつです。ひらがな・カタカナから始めた生徒たちが、一年後にはそれなりに普通に日本語で会話しているのを見ると、時に不思議な気持ちになって来ます。


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