アオザイ通信
【2005年7月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

< 教え子・Fさんの結婚式>
私がベトナムに来た最初の頃に日本語を教えていた生徒・Fさんが結婚式を挙げることになり、当日に私と女房と子供と、浅野さんの4人でサイゴン郊外のビエンホア地区まで行って来ました。ビエンホアはサイゴンから約1時間くらい離れたところにある地区で、日本企業や外国の企業が数多く誘致されている工業地区です。

Fさんはその当時まだ20歳の大学生で、その友人2人と一緒に日本語を教えていました。その時は3人ともまだ日本語を習って3ヶ月目くらいで、最初は片言の日常会話からスタートしました。3人ともまだ若かったので、みんな驚くような早さでみるみるうちに日本語が上達して行き、大学卒業後は3人とも日本企業に関連のある仕事に就くことが出来ました。

3人に日本語を教えて1年経ったころ、浅野さんのNGO団体・アクトマンが企画し、ベトナムのカンザーで実現させた3人の有名な日本人歌手のコンサートにも、この3人が無料で通訳やガイドなどのボランテイアを引き受けてくれました。

その時日本からは、喜納昌吉さん・加藤登紀子さん・新井英一さんの3人が来られましたが、一人一人にベトナム語の出来る日本人と日本語の出来るベトナム人を付けましたが、Fさんには加藤さんのほうのお世話をして頂きました。

それから早7年が過ぎ、3人ともそれぞれ郊外に住んでいて仕事も忙しいようなので会うこともありませんでした。また他の2人も2年前にすでに結婚していて、今は子供さんもいるということでした。その3人の中では最後に結婚することになったFさんでした。改めて歳月の早さを感じさせます。

彼女が事前に持って来た結婚式の招待状に書いてある時間は昼の11時です。サイゴンではこういう場合、式自体が始まるのは普通1時間から1時間半遅れて、12時から12時半の間です。
たとえもし時間通り行っても、出席者はまだ1割も来ていません。
そして90%くらいの参加者がようやく埋まるのが、実に1時間以上遅れてからなのです。

それで今回も私たちは、サイゴン市内を10時半頃出ました。そして1時間くらいして11時半過ぎに式場に到着しました。式場はレストランやホテルの中ではなくて、教会を借り切ってあり、教会の中と外に、大量のテーブルと椅子がセットされていました。外は陽が射さないように上からテントを張ってありましたが、もちろんクーラーなどはないので外の暑い空気がそのまま流れて来ます。

私たちが到着して入口のほうに歩いて行くと、本来お客さんを出迎えるためにいつもはそこ立っている新郎・新婦がいません。出席者もほとんどが来ていて、中には食べ終わって帰ってしまっているテーブルまであるではありませんか。しばらくしてすぐ新婦の友人の2人が私たちを見つけてくれて席まで案内してくれました。

我々が座った場所は教会の建物の中ではなくて、外のアスファルトの中をテントで張って区切った場所にあるテーブルでした。席に座るなりその友人が、「来るのが大変遅いですよ」と言いましたが、「サイゴンではいつも1時間以上遅れるので、今日もそうだと思っていたんだ」と釈明すると、「このビエンホア地区では、結婚式は時間通り始まるんですよ」と言うこと。浅野さんと2人で(それならそうと、事前に言ってくれればいいものを・・・)と話したことでした。

そして教会の中のほうを見やると、新郎・新婦がグラスを持って各テーブルを回っています。しかしこの教会にセットしてあるテーブルの数は驚くような数です。その友人に聞くと、70テーブルはあるとのこと。1テーブルが10人着席する予定ですから、単純に計算しても700人。そのうち実際来ていたのは9割くらいでしょうけれど、それでもものすごい人数です。

新郎・新婦が各テーブルに挨拶する儀式が続くなか、しばらくしてようやくFさんが私たちが着席しているテーブルに来てくれました。
2人がテーブルに来たら、みんなで乾杯の音頭と、写真撮影をするのが慣わしです。ここで6年ぶりにようやく彼女と再会しました。
しかし最初見た時には別人かと思いました。
化粧をしていたこともありますが、当時の大学生の面影はすっかり消えていて、本当に大人びた女性になっていました。考えてみればそれも当然で、もう少しで彼女も30歳に近づこうとしているのですから。

彼女はこれからもまだまだテーブルを回ったり、友人との会話で忙しいので、あまり長い話しは出来ませんでした。また私たちは遅く来たために食事自体が出て来るのも遅くなり、回りを見るともう帰り支度を始めているテーブルもあります。

私たちが食べている場所は教会の外だということもあり、回りはすでに食べ終わった人たちが食い散らかした食べ物のカスや、食事の最中に使用した紙やおしぼりの袋やタバコの吸殻や空き缶などが、山のようなゴミになって散らかっています。さらには私たちの回りのテーブルはドンドン片付けられてしまし、ますますテーブル下に落ちているゴミが露わになって来ます。何かゴミ箱の中で食事させられているような気持ちになってきました。

しかし可笑しかったのは、この結婚式用の食事を運んで来た仕出し屋の若い男の子達が、客がまだ飲んでいないで置いてあるビールをガンガンと飲み、まだお客がさして手を付けないで残した料理をバンバンと食べていたことです。そして彼等はそれがあらかた終ると、我々のほうのテーブルを見て(早く帰ってくれないかなあ〜)と恨めしい表情でじっと見ていますので、2時頃我々もボチボチと帰ることにしました。

このFさんが結婚した相手はアメリカに住んでいるベトナム人で、結婚式の後すぐテキサスに行くそうですが、幸せな家庭を築いてほしいものだと思います。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース 「セイジさん手作りの、ダンボールで出来たテーブル」■ 

「こういうふうにして食べるご飯はおいしいかい?」というのは、ナイトウ・セイジさんが自分のレポートに記録した写真や、活字にして印刷した中で、ベトナム語で書いたものとしては大変重要な表現なのです。

(このテーブルは食事をする時に、体に障害を持った子を起こして食べさせたり、テーブルの外がわに出したり、口に食べ物を運んだりするのには大きさが合わない・・・)などと、細かいことまで忘れないように、彼はそのレポートに記録していました。

彼の考えでは、(障害児の体に合わせて、一人ずつにダンボール製のテーブルを設計して作成してみよう)ということです。「これが出来れば、私のデザインの独占権が生まれます」と話していました。

セイジさんはこれからビエンホア工業区にある日本の会社に行ってダンボールを貰い受けてから、一人一人専用のテーブルを作成しようと思い、そのために今それを探しています」と話していました。

また「紙で出来たテーブルを使えば軽いので、どんな子供たちでも口に食べ物を運びやすいし、たやすく食事が出来るのです」と話していました。

ナイトウ・セイジさんはドンナイ省にある障害児の養護施設センターで、障害児にリハビリ治療を施すために派遣されて来た青年海外協力隊の一員です。彼はそこで障害児が社会活動に参加する機会を作ったり、障害児の世話をする技術を高めるために協力しています。

日本人である彼をそばで見ていると、彼はいつも力の限り努力していて、溢れる熱情を子供たちに対して持っています。日本では3ヶ月ベトナム語を勉強しただけでまだ少ししか知りません。さらにベトナムでは1ヶ月だけ北部訛りを南部訛りに直すために勉強しました。これは施設の子供たちと話したり、子供の言葉を良く聞き取ることが出来るためにです。

施設のほかの職員や先生たちは、みんなセイジさんを尊敬しています。「セイジさんはいつも仕事をしている。ヒマな時はリハビリ治療の本を読んで研究している。いつも夜中の2時か3時にならないと寝ない」と彼等は言います。

彼等は「セイジさんは子供たちが汚れていても嫌がらない。セイジさんが子供たちの体をいたわっている時には、子供たちは親愛の情を表わしたいがために、セイジさんに頭や体を寄せてくる」と言います。

彼は今自分の上司に「もう一人スタッフを増やして欲しい」とお願いしています。「大きい問題はみんなが多額お金を寄付してくれることではなくて、社会のみなさん方がこのような障害児に関心を持って頂くことです」と彼は言います。

セイジさんは、この後彼が帰国してからもセンターの活動内容をさらに深く研究し、またさらなる発展をして欲しいと思い、この施設センターのために多くの資料を今ベトナム語で書いています。

「私達は日本のこのようなボランテイアの方々の活動や寄付などの厚意に対して、大変貴いことだと本当に感謝に堪えません。さらに嬉しいのは、みなさんから多額のお金以上に子供たちを励ますための大切な手紙が、みなさんから数多く寄せられていることです」と、センターの責任者であるPham Van Hueさんはこのように話してくれました。

Hueさんは最後にこう言われました。「セイジさんはいつかまたベトナムにきっと帰って来てくれるだろうと信じています。彼の活動に対しては、こころからみんなが感謝しているんですから」と。

(解説)
今月6月に、日本の青年海外協力隊(JOCV)の活動はベトナムにおいて10周年を迎えました。これはベトナムと日本、2つの政府の間で取り交わされたプログラムです。

JOCVは1965年に成立し、自ら志願した日本の青年たち(20歳から39歳まで)が、2年の任期で発展途上の国に赴き、そこで生活し・仕事をするプログラムです。今までにこういう人たちが福祉やスポーツや文化交流などの分野で、いろんな人たちがベトナムにも来ています。

以前6年ほど前に、ベトナムに水泳の指導に来ていた20代の日本の青年に会ったことがありますが、その青年も燃えるような情熱を持って指導に当たっていました。時々彼に会うと、「早くベトナムの水泳のレベルを世界に追い付くようにしたいんです」と語っていました。

今はもうその彼とは会っていませんが、どこかまた別の国で教えていることしょう。今のベトナムの水泳のレベルがそれから上がったのかどうかは定かではありませんが・・・。


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