アオザイ通信
【2006年11月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<ダチョウのフォーを食べる>
今から15年前に、一人のベトナムの青年がNHKにベトナム語で手紙を出しました。「私はベトナム人です。日本語を学びたいのですが、今こちらには日本語の教材が全然ありません。それで日本語のテキストを送って頂けないでしょうか?」と。当時彼はベトナム南部のカントーという町に住んでいました。

今はホーチミン市内で数千人の生徒数を抱えている大手の日本語学校ですらも、15年前のその当時にはまだたった一クラスで、人数も20人にも満たない少ない数を集めて授業をしていたレベルだったといいますから、彼が住んでいたカントーという小さい町に日本語学校などがあるはずもありませんでした。

それで彼は何のツテもないまま、いろいろ悩んだあげく、思い切ってあのNHKに直接手紙を書いたのでした。この後しばらくしてNHKから、彼の元に数冊の日本語のテキストとテープが無償で送られて来ました。

それから彼は日本語を教えてくれる先生に就くこともなく、独学でそのテキストとテープだけを頼りに必死で勉強したと言います。その後数年経ち、彼はベトナムの大手旅行会社に採用され、日本人観光客担当の通訳として活躍しました。

私が彼と初めて会ったのは今から約2年前で、その時も旅行会社から依頼されて日本人観光客の通訳のアルバイトをしていました。
彼に初めて会った時、そのあまりに見事な日本語能力に驚き、「どこで日本語を勉強したのですか?」と聞きました。

すると彼は「いいえ、独学で勉強しました。というより、そうせざるを得ませんでした」と、上述のような話を私にしてくれたのです。それから彼が苦労して日本語を習得するまでの話を聞いた時、正式な日本語の先生にも就かずに、良くもここまで見事な日本語の能力を習得した彼の学習意欲のもの凄さに本当に感動しました。

日本語学校の先生が集まると、良く冗談で次のような話が出てきます。「日本語を学び始めたクラスが最初に30人いたとする。すると、一ヶ月後には25人になり、3ヵ月後には20人になり、半年後には15人になり、一年後には3人になる」と。それくらい、外国人にとって日本語を勉強し続けるというのは難しいということです。

さらにまたそれ以上に私が感心したのは、この異国の青年からベトナム語で手紙を受け取った日本のNHKの担当者(それが誰なのか今も彼は知りませんが)が、その手紙の内容をちゃんと読み取り、その彼の熱意をきちんと受け止めて、律儀にもベトナムまで教材を無償で送ってくれたことです。

この時のこの人の善意が無ければ、彼が今大変流暢に話しているその日本語をどこで、どのレベルまで習得出来たかは分かりません。彼は私に言いました。「手紙をベトナム語で書いた時に(その時は日本語をまだ知らないので当然なのですが)、そのままゴミ箱に捨てられるかもしれないかなと思いました」

「でもきちんと、期待していた以上の教材が送って来てくれました。私の手紙を受け取って、教材を送って頂いたこの日本の人には本当に感謝しています。この人の善意に応えるためにも、必死で勉強しようと思いました」と。

そして今彼は依頼された時だけ旅行会社の通訳をしていて、これから本業として自分が考えているビジネスについていろいろ話をしてくれました。この時に彼が私に話してくれたビジネスの中心は、今自分が中部に持っているという「ダチョウ牧場」の話でした。

「今後ダチョウを中心に据えたビジネスを今いろいろ考えています。いつか私のダチョウの牧場に遊びに来て下さいね」と、笑顔で誘ってくれました。その後彼は私の記憶の中では、不思議で、かつ印象的なベトナム人の一人として忘れたことがありませんでした。

それから2年の間彼とは会う機会がありませんでしたが、たまたま今月ある新聞記事を読んでいましたら、「ダチョウのフォー登場!」という記事が目に止まりました。ダチョウという言葉から彼の事を連想して、「もしや・・・、彼のことでは?」と思い、ずっと記事を読んでいくとやはり彼に関した記事でした。

実は彼はベトナムの少数民族であるチャム族の出身なのですが、中部は広い平原地帯が有効活用されないまま放置されているのを見て、「何とかこの土地を有効に利用出来ないだろうか?」と、若い時からずっと考えていたのだそうです。彼のこういう発想もまたすごい志だと思います。そして遂に1995年に、彼に転機が訪れました。

当時のベトナムの副首相が南アフリカを訪問した際にダチョウの卵を贈与されたというニュースを耳にし、「これだ!」とヒラメいたそうです。早速、故郷に22ヘクタールの土地を購入し、北部の家禽研究所からヒナを分けてもらい、ダチョウの飼育を始めたのだそうです。その後ダチョウの飼育は順調で、最初の10羽のヒナが現在では160羽にまで増えているといいます。2年前彼にその話を聞いた時、その行動力にはびっくりしました。

そしてこの記事を目にした後で、すぐ彼に「今からあなたの店のダチョウのフォーを食べに行きますよ!」と電話して、その後すぐ店に行き、彼に2年ぶりに再会出来ました。彼の店の中にはダチョウの革を利用した製品のバッグや、財布や、靴や、ベルトや、絵付けをしたダチョウの卵などが、インテリアも兼ねて置かれていました。

彼の名前はTri(チー)さんと言います。今37歳で、奥さんと3人の子供たちがいます。彼はこのダチョウのフォーを作るに当たって、その構想自体は数年前から練っていたようですが、実際に試行錯誤を始めてこの店を構えるまでには、わずか2ヶ月間しかなかったということでした。

彼はまずフォーの味のベースとなるスープのダシを作るために、ショウガやシナモンなどの様々な香辛料の配合をいろいろ工夫し、最初は家族に食べさせてみて感想を聞き、次に隣近所や友人に試食してもらい、何とか「これでいける!」というレベルに達したところで店を開いたのが今年の8月でした。

彼が独自に創造したその「ダチョウのフォー」を実際に食べてみました。スープは澄み切っていて、ダチョウの肉の味も大変あっさりしていて、これなら日本人の口にも合う風味だなと感じました。彼が言うにはダチョウの肉は、牛肉や鶏肉と比べてもはるかに低カロリーで、ヘルシーな食材ということで、彼は「最近毎日このダチョウのフォーを食べているけれども、以前よりも痩せてきました。ダチョウの肉は健康にもいいんですよ」と、彼自身がこのダチョウのフォーにはまっているような雰囲気でした。

ベトナムのフォーは、牛肉のフォーと鶏肉のフォーがベトナムの人たちの日常食として定着しています。私は個人的には鶏のフォーが好きです。その食の常識の中に、全く新しい味としての「ダチョウのフォー」を参入させて、ベトナム人の日常食のレベルまで広めるのは、さらにまたこれから相当な営業努力が要求されるでしょう。

しかし彼の夢はこの「ダチョウのフォー」に留まらず、次は「ダチョウの玉子焼き」や「ダチョウの肉のステーキ」の店を近々開店すると張り切っていました。

さらにまたOstrich(ダチョウ)の革製品は日本でも高い価格で売られていますが、彼はダチョウの皮を加工してバッグや財布やベルトなどの完成品を製造する工場もサイゴン市内に持っています。またこれ以外にも、彼はベトナム国内でも稀少になりつつある香木や伽羅なども手掛けています。

彼は私に2年前に話してくれていた夢をひとつひとつ実現させて来たこと、さらにまたこれからの夢についても語ってくれました。私は情熱的に語る彼の話に、しばらく聞き入っていました。私は彼が2年前に私に話してくれたことを回想しながら、日本語を学んできた一人の青年が、今や異能のビジネスマンに変貌しているような不思議な気持ちを抱きました。

何はともあれ、彼がこのベトナムで初めて手を付けて、新しい世界を切り開いた「ダチョウ・ビジネスの夢」が、これからどんな展開を見せてくれるのか大変期待しています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース 「孤児のレストランの“先生と生徒”」■

●2人の日本人の「お母さん」
「イラッシャイマセ!」。日本風の制服を着た子供たちが、日本風の挨拶をして、日本語でお客さんを出迎える。ここはベトナム中部のフエにあるレストランの光景である。

2006年5月に、フエに初めて日本レストランが出現した。このレストランは「ベトナムの子どもの家を支える会(JASS)」の運営費用を補うためと、子供たちに働く場所を提供するために作られた。

まだ幼さの残る従業員は、日本人のお客さんが来ると、ドアをそっと開けて、お辞儀をして出迎えて席に案内する。そしてメニューを見せて、日本語とベトナム語の2つで書かれた料理の内容をグエットさんが説明する。

お客がメニューを選んだ後で、「ドウゾ ゴユックリ」という言葉を、深くお辞儀をしながら言うのを忘れない。それを聞いたお客は、まだ幼さの残る顔をした女の子たちが、はっきりとした日本語を話すことが出来るのを見て目を丸くして驚いている。

そしてこのレストランに2人の日本人の女性がやって来た。その一人のサイタ マリコさんはここの管理者として仕事を任されている。彼女は世界のいろんな国を旅行したが、ベトナム人のフレンドリーさに惹かれて、そのままベトナムに足をとどめることになった。

マリコさんが言うには、「この日本レストランの開店が孤児たちを支え、また外国語を習得したり、技術を覚えたりするのに役立つことを希望しています。またここでそのような能力を身に付けた子供たちは他の場所に行っても働けることでしょう」。また彼女は「このレストランをもっと大きくして、将来は支店を作りたいです。そうすればもっと孤児たちを助けられるでしょう」とも話してくれた。

もう一人の日本人・オオツカ アイコさんは次のように言っている。「ベトナムの小さい子供たちは、欧米の同じ子供たちと比べると大変年長者に対して礼儀正しいと思います」と。彼女は62歳の時、縁あってベトナムにやって来た。

彼女が言うには「私が大学に通っている時、ベトナムを一度訪問した先生が(もしこのクラスの中で誰か良心があるのなら、是非一度ベトナムを訪問しなさい。そこは英雄の国であり、痛ましい歴史があるけれども、お客さんをもてなすこころのある国だ)と言ってました」と。

今アイコさんが日本へ帰るたびごとに、ここの孤児たちから「日本へのお土産です。ぜひ持って帰って下さい」と言って、ベトナムのお茶の葉や、ヌックマムや、刺繍の布絵などをプレゼントしてくれるという。

●一度灯ったランプの輝きは途切れない
ここの指導に来た最初の2人の日本人の先生に就いて、日本語と給仕の仕事を6ヶ月以上勉強する養成するコースをグエットさんは終えたばかりである。そこの先生が言うには、彼女は3ヶ月日本語を正式に勉強し、また6ヶ月は聞き取りの訓練もしながら、テレビで日本の文化も勉強したばかりである。ここでグエットさんは先生から「お母さん」のように手取り足取り個別に指導を受けて来た。グエットさんは将来旅行会社の通訳になる夢を抱いている。

このレストランに来るお客さんの幾人かは、ここで一所懸命に働いている16歳〜19歳までの子たちが孤児センターの出身であることを知っている。台所を覗くと、ミーさん(18歳)が大根やジャガイモの皮を剥いたり、牛肉を四画くく切って細切れにしていた。

彼女は、「今私はスシのような料理も作れるようになりました」と誇らしげに話してくれた。「料理を作るのに精神を集中していると、寂しさも忘れるんです」とも話してくれた。

実は彼女の父親は彼女が生まれてすぐ亡くなり、その後しばらくして母は彼女を捨ててどこかに行ってしまい、彼女たちは親戚の家に預けられて育てられてきた。今はその弟とも離れて暮らしている。「いつか私が、自分で弟に美味しい料理を作って食べさせてあげたいんです」と彼女は言う。

今彼女は一ヶ月に300,000ドン(約2,200円)の給料をもらっているが、おばさんのところに預けられている弟のための食費や学費として、そのほとんどを送っているのだという。アイコさんは台所でせっせと働く、そういういろんな子供たちを暖かいまなざしで見守っている。

(解説)
このフエにある「子どもの家」には私も一度訪問したことがあります。その時に、そこの責任者である日本人の先生の話も聞きました。その先生は大変情熱的な話をされる方で、「子供たちをここで預かり、ここで教育を受けさせていますが、さらに大事なのはその子供たちに将来どういう仕事を提供するかであり、そのために今職業訓練も施しています」と話されていました。しかしこの時にはまだ、この記事の中にある日本レストランは出来ていませんでした。

サイゴンでも孤児を預かって面倒を見ている日本人の組織団体もあります。孤児ではないけれども、学校に行けない子供たちの面倒を見ている日本人もいます。この夏ティエラの「マングローグ親善大使」の子供たちもそういう子供たちと丸一日交流会をして過ごしました。

孤児の子供たちというのは、こころに深い傷を残しているケースが多いと聞きます。「体の傷は治るが、こころの傷はなかなか治らない」ということを、ある孤児の施設の園長先生が話していました。

日本の生徒たちと一緒にプールではしゃいでいるベトナムの施設の子供たちを見ていて、(この子たちはどういうつらい過去を背負っているんだろうか?)と、思うこともありました。



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