アオザイ通信
【2008年12月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<一字為師 〜先生の日に思う〜>

11月中旬、市内にあるD・K日本語学校で、「日本文化祭」なるイベントがあり、私も招待されましたので出かけて来ました。この催しは毎年の恒例の行事となっていて、今年で5回目になります。

そしてこれを運営しているのは、すべてこのD・K学校で学んでいる生徒たちと、そこで教えている先生方や事務の人たちです。先生や生徒たちが中心になって、この日一日の催し物を準備し、演出もし、自分たちが歌や踊りも披露しているのでした。会場の中には大きな舞台が出来ていて、その上で生徒たちが踊ったり、ベトナム語や日本語の歌を歌っていました。

またこの日はいろんな種類の屋台や出し物があり、これもすべて生徒たちの手で行われていました。会場の中には日本料理らしきコーナーもあり、ミニ巻き寿司やお好み焼きや天ぷらの屋台が出ていました。

女子の生徒たちはこの時ユカタも着ていて、日本らしさを演出していました。しかしベトナム人の生徒が慣れない手つきで巻き寿司を巻いているのを見ますと、なにかほほえましくなってきます。

お好み焼きのコーナーでは、焼けた片面をひっくり返していた女性の手つきが大変手慣れているので、「大変上手ですね〜。」と私が声をかけますと、「日本で3年間研修生として働いていまして、その時に日本人から教えてもらいました。」という答えでした。道理で上手なわけです。

日本風の料理以外にも、別の場所ではベトナム料理の屋台も出ていました。屋台で売られている料理はすべてお客さんがお金を出して買うわけですが、お好み焼き屋さんでは一枚が1万5千ドン(約80円くらい)で売られていました。

このような料理以外にも、70過ぎたくらいのお爺さんがベトナムの詩を、その場で筆と墨で掛け軸に書いて販売しているコーナーもありました。お客が書いて欲しい文字や、ベトナム語の自分の名前などを依頼すれば、その達筆な筆さばきでベトナム人の名前を絵画風に書き上げていました。

さらにはまた茶道も紹介されていました。茶を点てているのは和服を着たベトナム人の女性の先生でしたが、彼女は日本人から正式に茶道を今も習っているということでした。

そして書道のコンテストもありました。書道のコンテストといっても、各自が勝手に好きな字を書くのではなく、全員が同じ字に挑戦してその書道のレベルを競うわけですが、あらかじめ机の上には手本となる字が墨で書かれて置いてありました。

そしてその手本を同じように真似て、生徒たちが筆と墨で書いていましたが、これには10人ほどの中学生くらいの生徒たちが参加していました。

私は生徒たちが書いているその後ろから、彼らがどういうふうに書くかを見ていました。後ろから見ていますと、その筆さばきも実に堂に入っていて、筆順なども正しく書いていました。この時にみんなが手本として書いていた文字は、次なる言葉でした。

「一字為師」

この四文字を10名ほどの生徒たちが筆と墨で書いていましたが、全員が書き終わってから司会の先生がその作品を聴衆に見せた後、書道の心得のある先生がその中の優秀者2名を選んで表彰しました。

その2人の作品は、私から見ても実に整った美しい書体でした。この生徒たちはどこでこのようなレベルまで書道を身に付けているのだろうかと、不思議に思いました。

ベトナムでは街中に、日本のような書道教室はありません。それでベトナム人の先生に聞きましたら、たぶん彼らの両親が中国人で、中国人学校の中でおそらく書道を練習しているのでしょうと答えてくれました。筆の持ち方も手慣れたものでしたので、おそらくそうなのかも知れません。

ベトナムに限らず、昔から中国人は世界中に散らばって住んでいて、彼らが住み着いた異国で中華料理を広めたり、中国の様々な伝統文化を守っているのでしょうが、このような書道文化も学校や家庭で、今も若い学生たちに中国の伝統文化として連綿として教えているんだろうなーと、この時に考えたのはそれくらいのものでした。

ですから、この時に生徒たちが書いていたその四字熟語の意味については、あまり深く考えることもなく会場を後にしました。

そしてそれから数日後に、今年もまた11月20日に「ベトナムの先生の日」が来ました。この行事は毎年のことなので、ベトナム人の先生たちはもちろん、日本人の先生たちも数日前から、「今年もまたやって来ますね〜。」と、期待を込めて待っています。

この日にはクラスのみんながお金を出し合って、先生に花やネクタイやバンドやシャツなど、いろんなプレゼントを上げます。今年見たプレゼントでは、女性の先生にはハンドバッグなども上げている生徒たちもいました。

プレゼントにはいろんなものがありますが、定番の花プラス、何か他に品物を上げるのが普通のようです。しかし父兄の中には自分の担当の先生にお金をこっそりと上げる人もいるそうですが、ベトナム人の先生に聞きますと、原則としてそれは禁止されているようです。しかしその先生は笑いながら、「百万ドンの現金はいけませんが、一千万ドンのバイクならいいんですよ。」と言っていました。

まあ要はあからさまな現金の進呈は、先生や父兄・生徒の関係にも悪い影響が出て来ますから、表向きは禁止しているということでしょう。しかしこの日はベトナム全土で、先生たちが生徒たちからのプレゼントをもらって嬉しい顔をしている光景が想像出来ます。

しかし基本的なパターンは、個人であれ、クラス全体であれ、先生には花束を上げるパターンが多いですね。ですからこの時期には市内の花屋さんは数日前から、路上であれ、店であれ、多くの花屋さんが街中で花を売っている美しい光景が続いています。

ともかく、ベトナム全土の小学校から大学まで、そしてまた日本語学校などの語学学校であれ、専門学校であれ、とにかく「先生」として何かを生徒に教えていれば、その「先生」にこの日は生徒側から何かプレゼントをして、感謝の気持ちを表すという日が、この「ベトナムの先生の日」なのです。

そして私もまた、生徒たちから花束やプレゼントを貰いました。そして彼らがプレゼントしてくれたその花束の中に、ベトナム語で書かれた短冊のようなものが入っていました。それは生徒が自分の手で書いてくれたものでした。その花に添えられていた、美しいベトナム語で書かれていた詩のような文字を何気なく読んでみましたら、

“Nhat Tu Vi Su , Ban Tu Vi Su ”
ニャット トゥー ビー スー , バーン トゥー ビー スー

という言葉がベトナム語で書いてありました。それを見て(これはおそらく中国から来たことわざだろうな・・・)と考えて、それを頭の中で一文字ずつ漢字に置き換えてみました。“Nhat” は“一”、“Tu”は“字”、“Vi”は“為”・・・と考えているうちに、(あっ!)と思い至りました。それはまさしく、あの文化祭の時に生徒たちが筆と墨で書いていた、あの四文字なのでした。

「一字為師」

あの書道コンテストの時に手本として置かれていたあの四字熟語は、その時の私はただ単に、(書道コンテスト用の文字なのだろう)くらいに考えていました。

しかし今思いますと、この言葉はもうすぐやって来る「先生の日」の行事に深く結びついているからこそ、あのような言葉を事前に生徒たちに筆を持って書かせて、書道コンテストを競っていたのだなーというのが良く分かってきました。

ですからあの日の書道コンテストの一コマの風景は、11月20日の「ベトナムの先生の日」までつながっていたわけでした。そしてあの日文化祭に参加していたベトナムの人たちには、敢えてその言葉の意味を聴衆に向かって説明する必要もない周知の知識だったのでしょう。

しかしその言葉の意味や背景を知らない外国人である私は、その時にはこの言葉が有する深い意味にまで思いが及びませんでした。あの文化祭の時に初めて目にして、その時にはさほど深くは気に留めなかったこの四文字なのですが、今この時に向こうから私の目に飛び込んで来るような鮮烈な言葉として、まざまざとして甦ってきました。

文化祭の時に生徒たちが書道コンテストで書いていた時には大して深くは考えていなかったこの言葉が、私の中で今ようやくこの時に、漢字とベトナム語がしっかりと結び付き、(ああ〜、あれはそういう意味があったのか・・・)と理解出来てきたのでした。そしてもう一つの“ Ban ”は“半”ですから、これは漢字に訳すると、「半字為師」となります。

私はそれをしばらく一人で見ながら、その意味をあれこれ考えていました。そして私なりに、(おそらくこういう意味ではなかろうか。)と、大体の意味は想像できました。さらに念のために日本語の達者なベトナム人の先生に、「これはどういう意味ですか。そしてベトナムではこの言葉は広くみんなに知られた言葉ですか。」と聞きました。

するとその先生は、「ええ、みんな良く知っていますよ。生徒に一字を教えても、その人はその生徒の先生。生徒に半字を教えてもまた先生という意味です。ベトナムでは小学生くらいから教えていますので、みんな良く知っていますよ。」と説明してくれました。

ちなみに翌日、私の近所に小学5年の子供がいますので、その子にこのベトナム語の文字を見せて「これを知っている?」と聞きますと、果たして「知ってるよ。」と答えてくれました。やはりどうも小学生の時から教えているようでした。もっともその深い意味を理解するまでには少し時間はかかるでしょうが。

それからしばらくの間、「先生の日」が終わった後も、私はこの四文字の言葉をずっと折に触れて考えていました。しかし考えれば考えるほど、たったわずか四文字の言葉でありながら、「先生と生徒」との理想的な関係をこれほど深く、簡潔に表した言葉を知りません。

この表現は、おそらくは中国の古典からの借用だとは思いますが、私が今まで読んで来た中国古典の漢文の中には、このような表現を聞いたことも、読んだ記憶もありません。どこにこの出典はあるのでしょうか。

いずれにしましても、この四文字の解釈は生徒の目から見て、「たった一字、半字だけ教えてもらった先生」に対しても、尊敬の気持ちを忘れない、その時の感謝の気持ちを先生に表しているというふうに解釈するのが普通でしょう。

しかし反対にまた先生の立場から見て、「先生は一字教えても、その時からすでに生徒の前では先生になる。だから先生として自分自身を律するべきだ。」というふうにも解釈出来るでしょう。

さらにまたいろんな人の意見を聞くべく別の先生に聞きますと、あるベトナム人の先生が言うには、「それが常識的な解釈なんですが、実はこのことわざには別の解釈もあります。それは生徒が一字を覚えたり、いろんな知識を身につけたりして成長していくのは、それを授けた先生があってこそと言う意味なんですよ。だから大きくなっても先生の恩を忘れてはいけないという意味です。」とも教えてくれました。

しかし彼が説明してくれたその解釈は、何か日本の“仰げば尊しわが師の恩”という、あの卒業式の時の恩着せがましい歌を連想してしまい、ここは私には素直に、「常識的な解釈」のほうがいいような気がします。

そしてこのことから私の興味は、さらに「ベトナムの先生の日」について、改めてその成り立ちと歴史についての関心が広がり、(一体「ベトナムの先生の日」はいつごろから始まったのだろうか?)と素朴な疑問が湧いて来ました。

それでいつから「ベトナムの先生の日」が始まったのかを、いろんなベトナム人の先生方に聞きました。すると、ほとんどの先生方が、「いやー、いつから始まったのか知りません。私が小学校に行った時には、すでにその行事が行われていましたよ。」という返事でした。誰からも明確な答えが返っては来ませんでした。

しかしよく考えてみれば、ひとつの行事が当たり前のように、深く国民に定着している場合は、みんなの意識は案外そういうものなのかもしれません。

そこから私なりにいろんな情報を集めて、あの「日本語会話クラブ」のSさんにも聞くなりして、「ベトナムの先生の日」の成立と今に至るまでについて、その輪郭がようやく見えて来ました。その歴史と成り立ちは、簡単に説明すれば以下のようなものです。

まず1957年に北ベトナムで「先生の日」が制定されました。そしてその翌年の1958年から、最初の「先生の日」が正式に動きました。しかしこの段階ではまだ北ベトナムだけで、南にはまだこの「先生の日」はありませんでした。

そして1975年に長い戦争が終わって南北が統一されてから、ベトナムの伝統を守る動きが出始めて、その象徴的なものとしてベトナム全土で11月20日を「ベトナムの先生の日」に指定する決定がなされて、南北統一後には1982年から正式にこの「ベトナムの先生の日」がスタートしたようです。ですから今ベトナム全土で行われているこの行事は、今年で26年目を迎えることになったわけです。

しかしいくら政府が音頭を取っていろんな「○○の日」を作っても、そこにはそれを実際やる側にその思いと、こころが入っていなければ、ただ形式的にその日を作っただけに終わるでしょう。

日本にはバレンタインデーに、男性に義理チョコを女性が贈る習慣がありますが、本音を言えば(イヤイヤながらやっている。早くこんな風習は無くなって欲しい!)というのが多くの女性の気持ちでしょう。

しかしこの「ベトナムの先生の日」については、私も今まで生徒たちのいろんな反応を見て来ましたが、(またこの日がやって来たか。いやだな〜。早く無くなって欲しいなー。)というふうな表情をしている生徒には、少なくとも私が知る限りは、未だに会ったことがありません。

クラスの中の級長らしき生徒が中心になって、みんな一人ずつから先生の日に贈るプレゼントの費用を徴収したりしていますが、それを嫌がる生徒など見たことがありません。当然のように払っていますね。

今にして考えますと、ベトナムでは先生に対してのそういう尊敬心の根底にあるのが、実はこの「一字為師」という、低学年の時から教えられてきた言葉なのではないのかと思い至りました。

私たちのような外国人でも、ベトナムで先生としての仕事をしている人たちであれば誰しも同じような経験をしているはずですが、先生が授業をしに教室に向かい、そのクラスに入るやいなや、何も先生が言わなくても、誰が指示しなくても、クラスの全員がサーッと一斉に立ち上がって深々と礼をします。そして「先生、こんにちは!」と大きな声で挨拶をしてくれます。

これはあのSaint Vinh Son(セイント ビン ソン)のような小学生でも、村山日本語校に来ている高校生でも、人文社会科学大学の大学生たちでも、研修生のように20才を超えている社会人のような生徒たちでも、まず例外がありません。

母国では友人関係のような先生と生徒の距離感が当たり前だったアメリカ人の先生などは、そのようなベトナムの生徒たちの振る舞いを見て大変な驚きを受けたと、ベトナムで英語を教えているその人が話してくれました。

また先生たちと廊下ですれ違う時には、ベトナムの低学年の生徒たちなどは、両腕を押し抱くような格好をして、頭を下げて「先生、こんにちは!」と挨拶してくれます。そのような生徒たちの美しい振る舞いや挨拶を目にした時、今このベトナムで「先生」の仕事をしている人であれば、誰しもが深い・深い感動を覚えずにはいられません。

一国の興隆の根幹は、政治・経済・そして教育の三つに尽きるのでしょうが、このベトナムの人たちの教育観・先生観の根底にある「一字為師」の美風と、「ベトナムの先生の日」という、そういう麗しい日を持たない日本から見たらまことに羨ましい風習は、ずっと、ずっと続いて欲しいものだと思います。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <ベトナムに住むのが好き> ■

◎ある外国人の目に映ったベトナム◎

数日前、私はベトナムに出張に来て今はもう台湾に帰った台湾人の友人と話していた。彼は私に「ベトナムは未だにゆっくりとした発展しかしていないのに、台湾から今も多くの事業家がこの国にやって来て、ベトナムでビジネスを発展させようという計画を考えている。そしてまた彼らみんなが、何故ベトナムを大変好きだというのが分からない。」と聞いてきました。

私は彼にこう答えました。「私も台湾に帰りたいとは思いません。私はベトナムに住むのが好きだから。」と。

私がベトナムを好きな理由はいくつかあります。まず第一には、今のベトナムは私が小さい頃の台北に似ているからだと言えます。4年前私はベトナムに来た時から借りていた下宿の大家さんといつも一緒に、路上にあるサトウキビジュースを飲みに出かけに行きました。

一人ずつが低い椅子に座って、サトウキビジュースを店員が持って来るのを待っていました。その時周りの光景をじっと見ていますと、私が台湾に住んでいた小さい子どもの頃の光景を思い出して、本当に感動しました。

あの時私の目の前には夕方の暮れなずむ光景が広がっていました。日が暮れようとしている頃、小さい子どもたちは歩道で遊び、大人たちは路上に椅子を出して談笑しながら憩っていました。このような光景を見た時に、私の幼い頃の記憶がふっとよみがえり、楽しかったあの子どもの頃に戻っていったのでした。その時のことは今でも忘れられません。

そして二つ目は、台北にいた時のように緊張感がなく、ベトナムの生活はゆったりしていることです。ベトナムの人たちと比べると、台湾の人たちはいろんなことを心配し過ぎです。

さらに三つ目は、ベトナムでの生活は私から見ていて、ベトナムの人たちが大変感情が豊かであるということです。私は台北で生まれましたが、台北の人たちはベトナムの人たちと比べると、こころが大変冷たいという印象を受けます。

ベトナムでは小さな食堂などでご飯を食べる時、同じテーブルに見ず知らずの人が座っても、しばらくすると会話が始まり、いつの間にかまるで家族の一員のように親しげに話しています。

バスに乗った時なども、隣に知らない人が座って来ても、いつもすぐその人と打ち解けて、いろんな話をしています。今出会ったばかりの他人同士なのに至る所の席で、みんなが自分のことや、仕事のことや、家族のことや、故郷のことを話し始めるので、バスの中はだんだんそういう人たちの話し声でにぎやかになってきます。ベトナムではこういうことが多いので、私にとってベトナムでの生活は楽しくないはずがありません。

台北で私が学校に通っていた時、学友たちと話したい、知り合いになりたいと思い、こちらからいろいろ話しかけたり、質問をしたりしても、彼らは聞かれた質問に答えるだけでそれ以上の会話はなく、黙々と朝ご飯を食べることに熱中していました。

ベトナムでは、たとえ台北ほど生活が便利ではなくても、その不便さを上回る楽しいことがいっぱいあるんです。

もう一つ面白いのは、ベトナムの南部は一年中夏で、雨季と乾季の2つしかないことです。一年のうち半分はほとんど雨が降らない、明るい・暑い季節が続いているのです。しかし陽射しは強くても、ベトナムの南部の暑さは台北ほど暑くはありません。

台北は盆地の中に位置しているので、風がなく、湿度も高く、夏などはクーラーがなければ暑くて、暑くて堪りません。でもベトナムの南部は広いメコンデルタの上に位置しているので、海から風が吹いてきて、気候は大変快適です。雨季の時でも、雨が止んだ後には、秋のように涼しくなるのです。

ですから結論から言えば、ベトナムでの生活は大変過ごしやすく、また楽しいことが多いのです。そしてまた私もこれからベトナムが発展することを希望しています。

どこの国の人たちであれ、人はいつまでも過去の追憶の中に住むわけではありません。どこの国でも、その国が貧しい段階から抜け出して、豊かな国を目指して発展していくことは必要なことです。

だからこそ私は、これからのベトナムが経済的な発展とのバランスを維持しながらも、ベトナムの人たちが昔から大事にしてきた文化や生活様式を守り続けて欲しいと思うのです。

(解説)
ベトナムで生活している時に、1年に1・2回ほど、私は突然奇妙な気持ちに襲われることがあります。

街角の路上の茶店で低い椅子に座って、一人でお茶を飲んでしばらくボーッとしている時や、バスに乗って座席から外を走っているバイクの群れや目の前を通り過ぎて行く人を眺めるともなく見ていますと、周りの時間と空間が一瞬止まってしまい、(自分はなぜ、今ここにいるのだろうか・・・)という思いがふっと湧いて来る時があります。

しかし自分でバイクに乗って街中を走っている時には、こういう感慨に襲われることはありません。こういう経験は、短期の旅行で異国を訪問した人たちはあまりないでしょうが、外国で少し長い生活をした人たちなら、似たような感慨を抱かれた人は多いと思います。

この記事を書いた人は、ハノイに住んでいる台湾の人で、まだ若い女性の新聞記者です。彼女の記事を読みながら、彼女が描写した今の台湾と日本が何と良く似ている点が多いことかと、その点にも驚きました。

そしてまた彼女が書いたこの記事を読んでいますと、ベトナムを訪れた年配の日本の人たちに、私が「ベトナムの感想はどうですか?」と聞いた時に返って来た言葉にもいろんな点で共通する部分があります。

私自身、ベトナムでの生活が11年を超えましたが、今振り返ればあっという間に過ぎたという感じですが、(ベトナムのどこが気に入って自分は11年もいるのだろうか?)と、時々自問自答することがあります。

私は今サイゴンに住んでいますが、環境汚染や交通渋滞など、いろんな問題を抱えながらも、このサイゴンという街の魅力は、なんといっても「大いなる下町」の部分がまだ色濃く残っている点にあると思います。

サイゴン市内の空を見上げれば、今建ったばかりの近代的な高いビルが幾つも建ち並んでいますが、その視線を少しずつ下に落としてゆくと、路上にはフォー屋さんがあり、タバコ屋があり、向こうから天秤棒を担いだおばさんが歩いて来たり、椰子の実を売り歩いている少女がいたり、体重計をお兄さんが押して歩いていたりしています。

さらにフランス風パンのサンドイッチ屋さんがあったり、バイクの修理屋さんや、靴や服を安い値段で直してくれるおじさんがいたり、リヤカーを引いた果物屋さんが路上で店を開いていたり、宝くじやガムを売る少年・少女がしつこく付きまとったり、そしてこれ以外にも日本人から見ると、訳の分からない商売をしている人たちがたくさんいます。

道路や歩道や空き地というのは、日本では単に人や車が通り過ぎて行くための移動するための空間であり、物を置くための単なる「無機質な空間」でしかありませんが、ベトナムでは道路や歩道や至るところのちょっとした空間は、ベトナムの庶民がそこで朝・昼・晩と飲んで、食べて、話し、憩い、ある時には寝たり、また大きな声で喧嘩していたりするような、非常に「人間臭い生活空間」であるところが、日本との大きな違いと言えるでしょうか。

サイゴンという、ベトナムでは一応都会に分類される街でも、そういう点が今でも色濃く残っています。そこが、私が「大いなる下町」と言う所以です。

そしてこういう光景は、ベトナムの田舎に行けば風景でも人情でも、さらにまた強く残っています。年配の日本の人が「昔の日本を思い出しますね〜。」というのは、そういう田舎の光景や、サイゴンの「大いなる下町」の光景を見た時に、かつての日本と似ているような感慨に浸るからのようです。

今私は、私と同じようにサイゴンに長く住んでいる日本人の友人たちがいますが、彼らに「なぜこのベトナムに長く住んでいるの?」と、改めて聞くことはありません。しかし敢えてこのような質問をすれば、この女性記者と同じような答えが返って来るのではと思います。



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