春さんのひとりごと
<元日本兵の墓を訪ねて>
ベトナムは歴史的に永い間、中国の影響を強く受けて来ましたが、日本と古い関係があるものも、また断片的にはいくつかあります。
古くは、あの阿倍仲麻呂が日本へ帰国途中に船が遭難して漂着したのがベトナムですし、16世紀末から17世紀初めに日本が行った朱印船貿易の影響で、当時東南アジアの各地にいわゆる「日本人町」が作られました。ベトナムでは、中部のホイアンにもそれが出来ました。
そのホイアンには、今もベトナムの人が「日本橋」と呼んでいる橋が残っています。私も直接見ました。そしてこの近くには、その当時ここで亡くなった日本人の墓もあります。
また、秀吉や千利休などが茶道具として珍重して買い求めた安南焼なども、ベトナムから輸入しました。しかしそれらは今、過去の歴史の一ページに記されていることでしかありません。
そして近代に入ってから、ベトナムと日本の関係は重く、深い歴史を刻んでいったのでした。あの第二次大戦開始後の1940年に、このベトナムに日本兵が、「仏印進駐」という形で乗り込んで来たという歴史の事実があります。
実は私の親戚にも、その仏印進駐時にベトナムにやって来たおじさんがいます。そして彼ら日本兵は第二次大戦終了まで、ベトナムで様々な活動を行い、その足跡を残し、戦争終了後は日本軍のほとんどが故国に引き揚げたのですが、一部自分の意志で日本に帰らず、そのままベトナムに残った元日本兵たちもいました。
そして彼等の一部は、ベトナムの独立を認めないフランスに対して抵抗したベトミン(ベトナム独立同盟)兵たちと一緒に、さらにまた続けてフランスの軍隊と戦ったのでした。その数約600名くらいといわれています。
そして抗仏戦争は、1945年〜1954年までの9年間続きました。しかしベトナムの山河・大地を舞台にした戦争は、これで終わりではありませんでした。あのベトナム戦争までへと続いていきます。そしてこの抗仏戦争が終わった1954年には、元日本兵の人たちもそのほとんどが日本に帰国しました。
しかしこの時に至ってもなお故国に帰らず、続けてベトナムに残ろうとした元日本兵がいました。その理由はいろいろあったようです。そういう元日本兵の一人に、抗仏戦争が終わた後、ベトナム南部の田舎に住んでベトナム人の奥さんをもらい、周りすべてがベトナム人の中で、一つの家庭を築いていた F さんがいました。
Fさんは男2人、女4人の6人の子どもをもうけていました。さらに今は、10数人のお孫さんが生きているとのことでした。Fさんが住んでいた所は、あのベトナム戦争当時にバナナを植えていた Yさんが仕事をしていた、南部の Cai Be(カイ べー)でした。実はY さんがベトナムでバナナをを栽培する目的で渡越した時に、 Cai Be のバナナ園を紹介したのが、その元日本兵・Fさんなのでした。
その元日本兵・Fさんは30数年前、このベトナムですでに亡くなり、今そのお墓がCai Beの近くにあるというのはYさんからも聞いていました。「いつかFさんのお墓参りに行きたいんだが・・・。」 と、Yさんは私に会った時に、折に触れてそういう話をされていました。私自身は、Yさんのそういう話をただ静かに聞いていて、戦争当時に結ばれた交友の深さ・絆の強さを、一人想像するだけでした。
私自身はもちろん、その元日本兵・Fさんと直接の面識はありません。しかし私は、Fさんの日本の故郷が実は福岡だとYさんから聞き、異国の地で果てたFさんに同じ九州人として、そしてまた同じ日本人としてたまらない気持ちが募ってきました。
それでYさんに「Fさんのお墓参りに行かれる時には、是非私も同行させて下さい。」と頼んでいました。Yさんもこころ良く承知されました。しかしYさん自身も時々日本に帰っていたりして、なかなかチャンスがなくて行くことが叶わないでいましたが、今回たまたまYさんの古くからの知人であるSさんが、12月中旬にサイゴンを訪問することになりました。
実はこのSさんもYさんと同じ時期に、同じ年齢くらい(当時まだ20代初期)でこのサイゴンに来ていたのでした。Yさんが現場のCai Beでバナナ栽培の管理に当たり、Sさんはサイゴンで、そのバナナの日本への輸出を担当されていました。
それで私たちが一同に会した時に、「数日後に、みんなでFさんのお墓参りに行きましょう。」という話が決まり、ようやくCai Beまで足を運ぶ日がやって来たのでした。Cai Beまではサイゴンから約110Kmくらいはあります。
当日は、 Y さんとその知人のS さん、そして私の友人のY氏で車を借りて行くことにしました。車の運転をしてくれたのはそのF さんの孫の男性で、さらに案内役として同じFさんの孫の女性も加わり、私たちはサイゴン市内を朝7時半頃出発しました。
途中Fさんのお墓にお供え物をするために、中国人の子孫が多く住む五区で、子豚の丸焼きやパン、おこわ、飲み物類を仕入れてCai Beへと向かいました。
車中では、Yさんからベトナム戦争当時のいろいろな話を聞くことが出来ました。Yさんは沿道の風景を眺めながら、「この道路も、以前はもっと道幅が狭くてね。しかも地雷が埋めてあることもあったので、この道路を通るのは危険だったよ。」
「時々サイゴンに行く時にはローカルバスに乗るんだけど、バスの後ろのタイヤが地雷に触れて吹っ飛んだこともあったなー。だから始発のバスは危ないのをみんな知っているので、その後のバスに乗り込むようにしていたよ。」などと、往時を回想して話されていました。
Yさんはベトナム戦争当時の、まさに歴史の生き証人のような人です。ベトナム戦争当時のサイゴンにいた、あの作家の開高健さんや石川文洋さんにも会って、一緒に飲んだりもしています。石川さんとは日本に帰った時、今でも連絡を取り合っているということです。
Yさんの話はさらに生々しく、サイゴン市内で行われた公開処刑も、その2つの目で実際に見たそうです。さらにはあの1975年4月30日に大統領官邸(今の統一会堂)に戦車が突入した有名なサイゴン陥落の場面でも、その瞬間に現場にいたということでした。
Yさんに私が、「第二次大戦が終わって、ほとんどの日本兵たちが故国へ帰った時に、何故Fさんは帰らなかったのかを聞きましたか。」と尋ねますと、Yさんははるか昔を回想するように遠くへ視線を伸ばし、「Fさんは、“負けた日本”という国を見たくなかったと言われていたねー。」と、しみじみと述懐するように話してくれました。おそらく当時、そういう気持ちを抱いた元日本兵が多くいたことは事実でしょう。
私たちはCai Beに向かう途中に、一人の男性を拾いました。実はその人はFさんの実の息子さんでした。年齢を聞くと41歳でした。そしてこのことは後で分かったのですが、その男性はお父さんのFさんに実に良く似ていました。
そしてCai Beの町に入り、そこからさらに20分ほど車が走ったところで、10時半頃ようやく目的地に着きました。そこは目の前を広い河がゆったりと流れていて、家の周りは緑したたる果樹園に囲まれ、サイゴンの喧騒とは比べ物にならない静かな場所でした。聞けば、ここはFさんの奥さんの妹さんの実家でした。ここにFさんのお墓はあり、奥さんと一緒に眠っているということでした。
私たちは途中で買出しした物を車から出して、それを持ってすぐ家の裏にあるお墓に向かいました。そしてマンゴーや、バナナやみかんなどが実を付けている果樹園の中に、Fさんのお墓はありました。この時果樹園の中には、ベトナム南部の12月特有の真昼を過ぎていない時間ころの、穏やかな日差しと、涼しい風が吹いていました。
そしてFさんのお墓のそのすぐ横に並んで、奥さんのお墓もありました。私たちはその二人のお墓にお供えものをしました。さらにSさんは日本から持って来た線香に火を付けて、ベトナム式のお参りをされました。私は日本の抹茶をサイゴンから持参しましたので、台所にいたおばあさんにお湯を所望して、お二人の霊前に供えました。
Fさんのお墓の正面には、Fさんの生前の顔を写した写真のレリーフも埋め込まれていました。それを見た時に、途中で車に乗せたFさんの子どもが、お父さんに実に良く似ているなーと感じた次第です。
Fさんの墓には、墓の正面にはめてある大理石に「1915年〜1975年」と、生年と没年が彫られていました。そしてFさんが亡くなられた日は、旧暦の1月26日でした。旧暦と太陽暦は、例年約1ヶ月くらいを前後してずれます。
ですからサイゴン陥落の日の約2ヶ月少し前くらいに亡くなられていたわけです。ちなみに今年のテト(旧正月)の日が、奇しくもこのFさんの命日と同じ、太陽暦で1月26日です。ですから、今年YさんとSさんがFさんのお墓参りに詣でた年が、Fさんの旧暦の命日と、テトの新暦の日が不思議にも(たまたまと言えばそうなのですが)重なったわけでした。
奥さんの墓には「1929年〜2004年」と彫られていました。ですからFさんが亡くなられた後、30年近くもこの墓を守ってこられたわけです。このお2人の墓以外にも、この果樹園の中には、先祖の人たちの墓なのでしょうか、苔むした墓がほかにも数基ありました。この区画が、この家族の人たちの墓場になっているのでしょう。
私はしばらくの間じっと、そのFさんと奥さんのレリーフを見ていました。私はFさんの生前の写真のレリーフを見ながら、国の命令で出征して以来、遂に日本に帰ることなく人生を終え、今この墓の中で眠っておられるFさんの運命に思いを馳せていました。
そして思わず感極まり、「今霊あらば、あなたとSさんのお2人がここへ来られたことを、Fさんは何よりも、どんなにか喜んでおられることでしょう。」と、私がYさんに近づいて話しますと、Yさんは黙って、静かに頭を縦に振っておられました。
そしてYさんとSさんは日本から持参した線香に火を付けて、深々と頭を下げられていました。しばらくしてYさんは、「線香の煙が目に沁みていかんわー。」と、途中で濡れた顔をゆっくりと上げられました。私もまた、だんだん強くなって来た真昼の日差しに、額からも目からも汗が出て来ました。
この後、霊前に供えていた食べ物を一部残して、また家の中へそれを持ち込んで、この日に集まってくれたFさんの家族の人たちと家のベランダでの昼食会になりました。今日のこの、Fさんのお墓参りの日に再会出来た喜びを、まずみんなで(男性群はビール、女性はジュースで)乾杯しました。
ベランダの前には背の高いみかんの木がたくさん植えられていて、直射日光をさえぎるようにちょうど良い高さにしてあります。大きいマンゴーの木もあり、この時たわわに実を付けていました。食後にはそのマンゴーの木から熟した実をもいで、デザートに出してくれました。やはりもぎたてだけに新鮮さに充ちて、実に美味しいものでした。やはりここにも、メコンデルタの豊穣さがさりげなくありました。
そして家のすぐ横には池もあり、そこではアヒルの親子が5・6匹水の上を泳いでいました。庭にも鶏がまた親子でえさをつついて歩いています。不思議なのは、実はこの家にも犬や猫は飼われています。
そしてその犬や猫の数メートル先を鶏の親子などが、土の中のミミズなどをつつきながら、平気で歩いています。日本だったら間違いなく、犬や猫は(わあー、ご馳走だ!)と跳びかかって、一瞬のうちに胃袋に入れてしまうでしょう。
しかしこのベトナムの犬や猫たちは、自分たちの目の前をのんびりと歩いている、そういうアヒルや鶏を襲って食べたりはしません。(我関せず・・・)という感じで、敵意などは向けません。
北部でも同じ光景を見ましたが、これだけは今でも不思議でなりません。(ベトナムでは、犬や猫もおおらかに生きているのかな?)と想像したりもします。
以前私と同じような気持ちを抱いた別の日本人が、ベトナム北部のお百姓さんに尋ねたら、「もし家の飼い犬や猫が、庭先を歩いているアヒルや鶏を食べたら、そんな犬や猫自体を私たちが食べてしまうのを知っていますから、そういう行動はしないんです。」と答えたという話があります。
しかしこの件に関しては、私も直接ワンちゃんやネコちゃんに聞いたことはありませんから、真偽のほどは分かりません。
さて今日の会合には、遠い人はバイクで2時間はかかるところから来た人もいました。そしていつも思うことですが、メコンデルタでこういう人たちと宴会をしていますと、目の前にいる人たちはもちろん同じベトナムの人たちなんですが、サイゴンの人たちの顔の表情とずいぶん違うなあーという印象を持ちます。
サイゴンに住んでいる人たちと比べて、特に目付きが、非常に穏やかで、優しさに満ちた表情で私たちに話しかけてくれます。私は時々田舎を訪れた時に出会う、こういう人たちとの出会いが、またベトナムの魅力のひとつだと思います。
みんなでひさしぶりに集まって食事をしている時に、Fさんの臨終間際の言葉も家族から語られました。実は亡くなる前の数日間は、「YくんとSくんに会いたい!」と、うわ言のように繰り返されていたそうです。Yさんも、Sさんも家族からそれを聞いた時に、しばし呆然とし、そして絶句されていました。しかし電話もない当時のこと、家族は2人に連絡の取りようがありませんでした。
私はFさんの家族の人たちと一緒に食事をしながら、Fさんのお墓に刻まれていた文字を思い出していました。あの墓碑にはFさんの姓名と、生年・没年の年月日と、そしてそのすぐ下には、「Quoc Tich Viet Nam(国籍ベトナム)」という文字が、硬い大理石にベトナム語で深く彫られていました。この言葉を彫ったのは、当然Fさんの奥さんの意志だと考えるべきでしょう。
「私の夫は生まれは日本だけれども、このベトナムで亡くなった時には、ベトナム人である私の主人として、そして私と同じ国籍のベトナム人として、これからベトナムの大地に化してゆくのだ。」という、奥さんのFさんへの熱い思いなのでしょうか。
Fさんは日本で生まれましたが、あの当時に多くの人たちが自分の意思では逆らえなかった戦争という大きな運命の激流に呑み込まれて、人生の歯車が大きく変わったのと同じように、Fさんも20 代で日本を離れて戦地に出て行って以来、一度も故国の土を踏むこともなく、ご両親との再会もついに叶わず、最後はベトナムという異郷の地で果てられました。
しかし、Fさんという一人の日本人が、このベトナムの南部の田舎で生きてきた軌跡は、今もちゃんと残っています。自分のお墓を守ってくれている6人の子どもさんたちと、10数人のお孫さんたちがいるからです。
マンゴーやバナナやみかんなど、多くの果樹の中を涼しい緑の風が吹く木陰の下で眠っているFさんと、その奥さんのお墓に最後の挨拶をし、家族の人たちにもお別れの挨拶をして、私たちはそこを辞しました。
Fさんのお墓参りを済ませた私たちが乗り込んだ車の後ろの方から、私たちに手を振って見送ってくれているようなFさんの幻影を感じながら、私たちは暑いサイゴンに向かって帰って行きました。
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